展覧会

没後400年 古田織部展
終了

2015年10月10日(土)~2015年11月23日(月)

2015年の秋季企画展として「没後400年 古田織部展」を開催いたします。

 

武将茶人・古田織部とはなにものか?

古田織部という名前を聞いたこのある人はどれくらいいるでしょうか。茶道を嗜む人や歴史愛好家の間では周知の人物であるものの、一般的には聞き慣れない名前かもしれません。しかし、近年に古田織部を主人公とした漫画『へうげもの』(講談社 週刊『モーニング』)が連載され、織部という人物についての関心が高まり、その存在が少しずつ認知されてきています。

 

では、その古田織部とはいったいどういう人物だったのでしょうか...。

 

《古田織部画像》(部分)

 

古田織部は、天文13年(1544)に美濃国(現在の岐阜県)に生まれます。織田信長によって美濃国が平定されるとその配下となり、以後織田家、豊臣家、徳川家と天下人のもとに仕え、特に豊臣秀吉の時代には茶の湯名人として名を馳せた人物です。その茶の湯は、茶道を大成した千利休のもとで学び、多くの弟子の中でも特に注目されていた存在でした。師である利休が亡くなると、秀吉の庇護のもと新たな指導者として、独自の創意と創造によって茶の湯の世界に新風を吹き込みます。

 

その世界観は、侘び茶を極めた利休とは対照的に、慶長年間(1596-1615)の華やかな時代の中で大胆奇抜な造形性と斬新な美を創出し、日本の文化史上最も豪壮華麗な桃山文化を彩りました。特にやきものの分野では自身の名前を冠する「織部焼」が生み出され、「織部好み」と呼ばれたゆがんだ茶碗や新奇な意匠が、大名や豪商、都市の富裕層の間で一大ブームを巻き起こすほど、強い影響力がありました。また、茶の湯の作法だけでなく、新しい価値観の茶室や露地などの茶の湯空間の創案や、日本各地の窯業地における茶道具制作の指導においても織部の功績を見ることができます。

 

展示風景

 

茶道文化史上華々しい功績があり、天下一の茶の湯名人として一世を風靡した織部ですが、元和元年(1615)の「大阪夏の陣」後に徳川家に対する反逆の嫌疑をかけられ切腹を命じられます。その真偽のほどは定かではありませんが、一言も弁明せずに潔く自害したと伝えられることから、師・利休と同様に権力者に媚ることなく、自己の信念に従う、そんな頑なまでの一途さを持ち合わせていたのではないでしょうか。

 

展示風景

 

2015年は古田織部が亡くなって400年を迎えます。そこで本展では、織部ゆかりの文化財を中心に、 " へうげた "(※) 茶の湯の名品の数々を余す所なく紹介し、激動の時代を生き抜き、天下一の茶の湯名人として独自の美意識を生み出した古田織部の人物像とその創意に迫ります。

 

 

(※) へうげた・・・ 現代読みでは「ひょう()げた」。 【剽げる】とは、「ふざける、おどける」という意味で、ここでは織部のゆがんだ茶碗や新奇な意匠に対する言葉。

 

 

 

 

 

【展示構成】

第1章 織部の時代

織部が活躍したのは慶長年間は、豊臣秀吉により天下が統一され、政治や経済が安定し、日本文化史上最も華やかと言われる桃山文化が花開いた時期でした。日本各地に城を中心とした新しい都市空間が創出され、建築をはじめ、庭園・絵画・芸能に様々な創意が発揮されます。茶の湯の世界では世俗の"かぶく"風潮を察知して、時流の最先端を積極的に取り入れた織部が新たな指導者となります。本章では桃山時代を象徴する絵画や工芸品をはじめ、南蛮文化に関わる文化財、秀吉・利休の関連資料を通じて、織部誕生の社会的背景をうかがいます。

 

第2章 織部の茶の湯

侘び茶を大成した師の利休とは対照的に、茶の湯の空間に新奇な創意を発揮し、ゆがんだ和物茶碗の創出など、茶陶に新たな世界を切り開いた古田織部。その織部が使った茶道具(《唐物肩衝茶入》銘:勢高)をはじめ、日本各地の窯業地において創作に関与したやきものを通し、織部の創意と工夫について展観します。

 

第3章 織部の世界

ゆがんだ茶碗や器を使った織部の演出は爆発的な流行を生み、「織部好み」として都市の富裕層に支持されました。とりわけ織部が推進した会席道具の改革は、料理の多様化を促し、現代に繋がる器となります。本章では織部のデザイン性が如何なく発揮された茶道具や会席道具を紹介します。

 

 

 

 

【みどころ】

本展には古田織部に関する貴重な資料や作品が数多く出品されています。

その中から特に重要な作品についてご紹介いたします。

 

織部が危険を冒して淀の船着場まで利休を見送った記録が残る貴重な資料

《千利休書状 松井康之宛》 天正19年(1591) 熊本・松井文庫蔵

この書状は、堺へ蟄居を命じられた利休に対し、細川家の重臣・松井康之が飛脚を送り見舞いを届けたことへの返礼の書状です。利休切腹の二週間前のもので、書中には淀の船着場まで、細川忠興と古田織部が見送りにきたことに、驚きながらも感謝していることが記されています。利休の見送りが発覚すれば改易、下手をすれば同じく切腹になりかねない危険を冒してまで、師・利休を見送りにきた二人の弟子達の間には、深い関係性を見ることができるとともに、この有名な話が実話であったとする資料的にも貴重なものです。

 

《千利休書状 松井康之宛》

 

 

 

織部が茶会で使用した名品たち

《唐物肩衝茶入 銘 勢高》 中国・南宋時代 13世紀 兵庫・頴川美術館蔵

「勢高」という銘が付けられていますが、やや細長く見えるだけで高さは通例の唐物茶入になります。織田信長が所持していたことでも有名で、本能寺の変で火中から救い出された茶道具の一つです。どのような経緯で織部が手に入れたのかは不明ですが、慶長6年(1601)にこの茶入を披露する茶会が催された記録が残っています。その後も度々織部の茶会に登場した記録を見ると、唐物茶入で唯一多用した、お気に入りの茶入であったことがうかがい知れます。

数少ない織部所持が確実な茶道具として注目されます。

 

《唐物肩衝茶入 銘 勢高》 

 

《御所丸茶碗 銘 古田高麗》 朝鮮王朝時代 17世紀初期

高麗茶碗の一種で、朝鮮半島との交易船「御所丸」によってもたらされたことから、この名称で呼ばれています。本作品は、織部自身が所持していたと伝えられ、「古田高麗」という銘が付いています。胴部中央が帯状に締められ、腰のあたりにはざっくりとした大胆な箆目が施されており、高台は六角形に削りだされる大変力強い作風になります。黒織部茶碗との造形上の近似性もうかがえることから、朝鮮半島で作られた焼物が少なからず織部焼へ影響を与えていたと考えることもできます。

 

《御所丸茶碗 銘 古田高麗》

 

 

 

織部直筆の花押(サイン)が記された茶碗

《黒織部茶碗》(織部花押付) 桃山時代 17世紀初期

黒織部茶碗の名品で、抱え込んだ口縁や胴部に描かれた抽象的な文様は、織部沓形茶碗の典型的な造りとなります。特にこの茶碗を有名にしたのが、高台脇に記された織部の花押(サイン)です。

墨書でなく鉄絵で描いた上から釉薬をかけていることから、織部自身が窯場に赴いてサインしたと考えられています。古田織部と「織部焼」の関係性については、不明な点が多いのですが、この茶碗の出現により、その関係性を考える上でも重要な意義をもつ作品になります。

 

《黒織部茶碗》

 

 

 

 

織部が指示・指導した九州諸窯のやきもの

近年、織部と九州地方の窯場との密接な関係がクローズアップされるようになりました。薩摩・上野・高取・唐津といった九州の主要な窯場で焼かれた茶道具、あるいは会席道具について、織部に具体的な指導を仰いだ資料も残っています。特に「茶の湯名人」織部の評価を得た薩摩焼茶入は、将軍家への献上品として、また周辺の人々への贈答品として数多く焼成されます。

 

左から薩摩焼、高取焼、唐津焼の茶入